ディープインパクトの生涯――小柄な少年が「英雄」となり、血で世界を駆け続けるまで

ディープインパクトの生涯――小柄な少年が「英雄」となり、血で世界を駆け続けるまで

競馬場の最後方に、小柄な鹿毛の馬がいる。

先頭まではかなり遠い。普通なら「さすがに間に合わないのでは」と思う位置だ。ところが、直線に入ると景色が一変する。馬群の外から加速し、前を走る馬たちを次々にかわしていく。その姿は、走るというより飛ぶ。こちらが距離を計算している間に、本人だけ別の物理法則へ引っ越してしまったようだった。

その馬の名は、ディープインパクト

2002年3月25日に北海道で生まれ、2004年に競走馬としてデビュー。2005年には無敗で中央競馬クラシック三冠を達成し、翌年も天皇賞(春)、宝塚記念、ジャパンカップ、有馬記念を制した。現役引退後は種牡馬として国内外に数多くの名馬を送り出し、日本競馬の血統地図まで大きく塗り替えた。

華やかな記録だけを並べると、最初から約束された王者のようにも見える。しかし、生まれたばかりのディープインパクトは、周囲がざわつくほど目立つ仔馬ではなかった。体は小さく、馬体も薄い。弱点と向き合いながら育ち、敗戦も海外での苦い経験も味わっている。

それでも最後には「英雄」と呼ばれた。ここでは、その誕生から競走生活、父として過ごした年月、そして17歳で迎えた別れまで、ディープインパクトの生涯だけをたどっていこう。

目立たなかった仔馬に宿っていた、走ることへの情熱

ディープインパクトは2002年3月25日、北海道勇払郡早来町、現在の安平町にあるノーザンファームで誕生した。父は、日本競馬に大きな変化をもたらした大種牡馬サンデーサイレンス。母はウインドインハーヘアである。

父と同じ3月25日生まれという巡り合わせも印象的だが、誕生直後から「これは未来の三冠馬です」とネオン看板が光っていたわけではない。牧場関係者は体のバランスの良さを認めながらも、ほかの仔馬と比べて際立って目立つところがあるとは感じなかったという。

同世代にはシーザリオ、カネヒキリ、ラインクラフト、インティライミ、ヴァーミリアンなど、のちに大舞台で活躍する馬がそろっていた。同期名簿の密度が濃い。学校なら、卒業アルバムのあちこちに後年の有名人が載っているような世代である。

0歳時には「ウインドインハーヘアの2002」として競りに上場され、金子真人が7000万円で落札した。高額ではあるものの、同じ競りに出たサンデーサイレンス産駒14頭の中では9番目の落札価格だった。馬体が薄く、見栄えの点で派手さに欠けたことも影響したとされる。

だが、金子が強く引きつけられたのは、その瞳だった。「瞳の中に吸い込まれそうな感覚に襲われた」と振り返っている。さらに、多くの人々へ強い衝撃を与える馬になってほしいという願いから、ディープインパクトと名付けられた。

結果を知ってから振り返ると、これ以上ない命名である。少々効きすぎなくらいだが、名前の側に罪はない。

小柄で繊細、それでも先頭で走りたかった

北海道の放牧地で群れの先頭を駆ける小柄な鹿毛の若駒
小柄な馬体の内側には、幼い頃から先頭を求める強い意志があった。

幼い頃には関節への不安があり、小さな放牧地で運動を制限された時期もあった。広い場所へ出られるようになってからは、集団のリーダーではないにもかかわらず、先頭に立って走ろうとした。薄い蹄を擦り減らし、血がにじんでも走るのをやめなかったという。

走ることを仕事として教わる前から、すでに走ることが好きだった。競走馬としては頼もしいが、見守る側には少々心臓に悪い。育成が始まると、小柄で繊細な面に配慮して女性スタッフが担当した。

大きな特徴として挙げられたのが、体の柔軟性である。騎乗者が「ゴムまりのように弾む」と感じるほど乗り味がよく、関節も非常に柔らかかった。一方では、柔軟すぎることや、小柄で非力に見えることを不安視する声もあった。

つまり、長所と短所が同じ箱に入っていた。その箱を開けたら、後年の飛ぶような走りが出てきたのである。

栗東で見え始めた「ただ者ではない」気配

2004年9月8日、ディープインパクトは栗東トレーニングセンターの池江泰郎厩舎へ入った。池江敏行調教助手と市川明彦厩務員が担当することになった。

初めて対面した市川は、小柄でかわいらしい顔を見て牝馬ではないかと思い、本当に牡馬なのか確認したという。競馬場で見せる圧倒的な走りとは対照的に、普段はおとなしく素直だった。厩舎では「お坊ちゃま」と呼ばれるほど扱いやすく、ニンジンを欲しがると柔和な顔を見せた。

ところが、走らせると話が変わる。

入厩から約1か月後、坂路調教で初めて時計を計った際、調教師の指示は58秒から59秒ほどだった。ところが実際には54秒前半で走ってきた。調教助手が「こんなに速く走っては疲れているはずだ」と駆け寄ると、汗一つかかず、平然としていたという。

人間なら、指定された軽いジョギングで全力疾走に近い時計を出し、ゴール後に涼しい顔で「次は何をします?」と聞くようなものだろう。周囲がただ者ではないと感じたのも無理はない。

デビュー戦の4日前には、武豊が初めて騎乗した。調教を終えた武は、興奮気味に「この馬、ちょっとやばいかも」と伝えたという。もちろん危険という意味ではなく、能力が想像以上だったということだ。このとき始まった組み合わせは、現役最後の一戦まで続くことになる。

デビューから三冠へ――衝撃が全国へ広がった一年

新馬戦と若駒ステークスで見せた末脚

2004年12月19日、阪神競馬場の芝2000メートルでデビュー。上がり3ハロン33秒1の末脚を繰り出し、2着コンゴウリキシオーへ4馬身差をつけて勝利した。

レース前、陣営は武に「あまり派手に勝たせないでほしい」と頼んでいた。それでも結果は4馬身差。できるだけ控えめにしたつもりで十分派手だったらしい。デビュー戦後の息の戻りも早く、担当者はクラシックでも戦えると感じた。

続く2005年1月の若駒ステークスでは、最後方からレースを進めた。4コーナーでも先頭とはおよそ10馬身差。普通なら緊急会議を開きたくなる距離だが、直線で一気に突き抜けて5馬身差で勝った。

この勝利によって、まだクラシックが始まってもいない段階から三冠を期待する声が強まった。期待の先行速度まで速い。ただ、それだけの内容だった。

弥生賞で示した「勝ち切る力」

皐月賞の前哨戦となる弥生賞では、単勝支持率71.5%を記録した。2歳王者マイネルレコルトやアドマイヤジャパンとの対戦となり、着差はクビ差。それでも武は鞭を使わずに勝利した。

大差だけが強さではない。相手や展開に応じて必要な分だけ前へ出ることも、競走馬にとって重要な能力だ。レース後、長所を尋ねられた武は「負けないところです」と答えた。簡潔だが、反論の差し込む余地がほぼない。

皐月賞、つまずいても一冠目

2005年4月の皐月賞では、単勝支持率63.0%、オッズ1.3倍の圧倒的な1番人気に支持された。しかしスタート直後につまずき、落馬寸前まで体勢を崩す。ほかの馬から離れた最後方となり、道中では接触する場面もあった。

それでも4コーナーから進出し、直線でシックスセンスに2馬身半差をつけて勝利。武がレースで初めて鞭を使った一戦でもあった。

この日の中山競馬場には8万5146人が入場した。スタート直後のどよめきが、直線では大歓声へ変わる。観客の感情を短時間で急降下させ、そのまま一気に上昇させる走りだった。ジェットコースターでも、もう少し事前説明がある。

一冠目を獲得した記念撮影では、武が指を1本立てた。三冠への道が、はっきりと形になった瞬間である。

日本ダービー、14万人の前で五馬身差

5月29日の東京優駿、日本ダービーには14万143人が集まった。ディープインパクトの単勝支持率は73.4%、オッズは1.1倍。当時の同競走における最高支持率を更新した。

初めての左回りでも、スタートでは再び出遅れた。道中は後方を進み、4コーナーでは大きく広がった馬群の最外へ。直線で先に抜け出したインティライミへ残り200メートル付近で並ぶと、そのまま突き放した。

着差は5馬身。勝ち時計2分23秒3はレースレコードタイだった。これにより、ディープインパクトは無敗の二冠馬となる。武は記念撮影で指を2本立て、のちにこの馬を表す呼び名として「英雄」を提案した。

大勢の期待を背負い、しかもその期待以上の勝ち方をする。英雄という言葉が大げさに聞こえないところが、ディープインパクトのすごさだった。

菊花賞、単勝1.0倍の重圧を越える

京都の直線で先行馬を差し切る小柄な鹿毛の競走馬
重圧を越えて差し切り、史上2頭目の無敗三冠を完成させた。

夏は放牧に出ず、札幌競馬場で避暑を兼ねて調整された。秋初戦の神戸新聞杯では後方から進み、手綱を持ったまま加速。直線で抜け出し、2着シックスセンスへ2馬身半差をつけた。1分58秒4は当時のレースレコードだった。

そして2005年10月23日、三冠最後の菊花賞を迎える。京都競馬場には13万6701人が来場し、同競走の入場記録を更新。単勝支持率は79.03%、オッズは1.0倍となった。

100円買って、当たっても100円。その馬券を買う人が大勢いた。利益というより、歴史への入場券だったのだろう。

レースでは好スタートを切ったものの、序盤で前へ行きたがり、武は馬群の内側へ入れてなだめた。中団で落ち着きを取り戻すと、直線で先に抜け出したアドマイヤジャパンを差し切り、2馬身差で優勝した。

これによりディープインパクトは、シンボリルドルフ以来21年ぶり、史上2頭目となる無敗の中央競馬クラシック三冠馬になった。記念撮影で立てられた指は3本。春から続いた物語が、ひとまず完璧な形で結ばれた。

初黒星、海外挑戦、そして復活――無敵だけではない物語

有馬記念で知った初めての敗戦

三冠達成後、年内最後の一戦として有馬記念へ向かった。ファン投票では16万297票を集めて1位。中山競馬場には16万2409人が詰めかけた。

古馬との初対決でも単勝オッズは1.3倍。しかし、結果はハーツクライに半馬身届かず2着だった。デビューから8戦目での初黒星である。

武はレース後、いつもの飛ぶような走りではなく、「普通に走ってしまった」と振り返った。普通に走って2着なのだから十分に高い能力を示しているのだが、求められていた基準がすでに普通ではなかった。

負ける姿など想像できないと思われていた馬が敗れた。その事実は大きな驚きを呼んだが、この敗戦が翌年の復活と成長を、さらに印象深いものにした。

4歳初戦から天皇賞(春)、宝塚記念へ

2006年の初戦は阪神大賞典。休み明けに加え、初めて背負う58キロ、稍重馬場、強い向かい風、3000メートルでの折り合いなど、複数の課題があった。それでも道中で落ち着くと、3コーナーから手綱を持ったまま進出して勝利した。

続く天皇賞(春)では、またもスタートで出遅れた。後方からレースを進め、向正面から長く加速。3コーナーの下りで前との差を詰め、直線入り口では先頭に立った。

2着リンカーンへ3馬身半差。勝ち時計3分13秒4は、それまでの記録を1秒更新するコースレコードだった。後方から早めに動きながら、最後まで伸び続ける。短い瞬発力だけでなく、長く速い脚を使えることを改めて示した一戦である。

宝塚記念では雨の影響を受けた馬場を苦にせず、外から伸びてナリタセンチュリーへ4馬身差をつけた。これで五つ目のGⅠタイトル。国内で再び頂点に立ち、次の舞台はフランスへ移った。

凱旋門賞で味わった、最も苦い一日

2006年10月1日、フランスのロンシャン競馬場で凱旋門賞に出走した。日本から大勢のファンが現地へ向かい、国内でも深夜の中継に高い関心が集まった。日本調教馬による優勝への期待は、それほど大きかった。

レースでは普段より前の2、3番手を進み、残り300メートル付近で先頭へ立った。しかし最後にレイルリンクとプライドにかわされ、3位で入線。その後、禁止薬物イプラトロピウムが検出され、失格となった。

無敗三冠を成し遂げ、国内で圧倒的な強さを見せてきたディープインパクトにとって、競走生活で最も厳しい出来事だった。武にとっても、凱旋門賞を勝てなかったことは長く残る悔いとなった。

ただし、この一戦だけでディープインパクトの生涯が終わったわけではない。失意のまま帰国した英雄には、まだ日本のターフで示すべき走りが残っていた。

ジャパンカップで立ち直り、有馬記念で飛び切る

帰国後の復帰戦はジャパンカップ。終始最後方で待機し、3コーナーから徐々に進出した。直線では鋭い末脚で先行馬をとらえ、ドリームパスポートへ2馬身差をつけて勝利。海外遠征後の重い空気を、自らの走りで振り払った。

そして2006年12月24日、最後のレースとなる有馬記念を迎えた。前年に初黒星を喫した舞台であり、競走馬ディープインパクトの締めくくりでもある。中山競馬場には11万7251人が集まり、単勝支持率は70.1%に達した。

レースでは後方3番手から進み、3コーナーで加速。直線で先頭へ立つと、最後は武が手綱を抑える余裕を見せながら、ポップロックへ3馬身差をつけた。

前年の敗戦を越え、最後は誰もが待ち望んだ「飛ぶ走り」で圧勝。武はのちに、この有馬記念を最もディープらしい走りだったと振り返っている。

競走生活は14戦12勝、2着1回、失格1回。GⅠ7勝、獲得賞金は14億5455万1000円に達した。2005年と2006年には年度代表馬に選ばれ、2008年には顕彰馬となった。

ディープインパクトの全14戦
レース結果主な位置づけ
2004年2歳新馬戦1着4馬身差でデビュー勝ち
2005年若駒ステークス1着最後方から5馬身差
2005年弥生賞1着無敗でクラシックへ
2005年皐月賞1着クラシック一冠目
2005年東京優駿1着無敗の二冠達成
2005年神戸新聞杯1着三冠へ向けた秋初戦
2005年菊花賞1着無敗のクラシック三冠
2005年有馬記念2着生涯初の敗戦
2006年阪神大賞典1着4歳初戦
2006年天皇賞(春)1着コースレコードで優勝
2006年宝塚記念1着海外遠征前の勝利
2006年凱旋門賞失格3位入線後に失格
2006年ジャパンカップ1着帰国後の復活勝利
2006年有馬記念1着引退レースで有終の美

ターフを去っても終わらない、父としての第二幕

2006年限りで現役を引退したディープインパクトは、2007年から北海道安平町の社台スタリオンステーションで種牡馬生活を始めた。

競走馬としての引退は物語の終幕に見える。だが、ディープインパクトの場合は違った。ここから始まったのは、本人が走る物語ではなく、血が走る物語である。しかも第二幕の規模が、第一幕に負けていない。続編が本編を超えるのはなかなか大変だが、彼は種牡馬になっても加速をやめなかった。

マルセリーナから始まったGⅠの系譜

2011年、初年度産駒のマルセリーナが桜花賞を制し、産駒として最初のGⅠタイトルを獲得した。その後、ディープインパクト産駒は世代を問わずクラシック戦線で活躍を続ける。

2012年にはジェンティルドンナが桜花賞、オークス、秋華賞を制して牝馬三冠を達成。さらにジャパンカップ連覇、ドバイシーマクラシック、有馬記念も勝ち、年度代表馬に2度選ばれた。父ディープインパクトと娘ジェンティルドンナが、ともに年度代表馬となったのである。

父が三冠馬で、娘が牝馬三冠馬。家族写真にトロフィーを全部並べようとすると、かなり広い場所が必要になりそうだ。

日本だけでなく、四つの国にダービー馬

日本ダービーでは、ディープブリランテ、キズナ、マカヒキ、ワグネリアン、ロジャーバローズ、コントレイル、シャフリヤールが父に続いて頂点へ立った。

なかでも2013年のキズナは、ディープインパクトの全14戦で騎乗した武豊とのコンビで日本ダービーを制覇した。父の背中を知る騎手が、その息子で同じ大舞台を勝つ。事実だけで十分に物語になっているので、脚色の出番がない。

産駒の成功は国内にとどまらなかった。ディープインパクトは、日本、イギリス、フランス、アイルランドの4カ国でダービー馬を送り出した。フランスではスタディオブマンがフランスダービーを制し、最終世代のオーギュストロダンはイギリスダービーとアイルランドダービーを勝った。

自身がかなえられなかった欧州での大きな勝利を、子どもたちが積み重ねていったのである。

コントレイルが完成させた父子無敗三冠

菊花賞の直線を駆けるコントレイルと父を思わせる馬の影
父の無敗三冠から15年後、コントレイルが父子2世代の偉業を完成させた。

2020年、コントレイルが皐月賞、日本ダービー、菊花賞をすべて無敗で制した。日本競馬史上3頭目の無敗三冠馬である。

父ディープインパクトは2005年に無敗三冠。息子コントレイルは15年後の2020年に無敗三冠。これにより、世界初となる父子2世代での無敗三冠が実現した。

血統はしばしば「受け継がれるもの」と表現される。しかし、この父子が受け継いだのは能力だけではなかった。皐月賞、日本ダービー、菊花賞という同じ三つの頂を、同じ無敗という形で踏破したのである。

残念ながら、そのときディープインパクトはすでにこの世を去っていた。それでもコントレイルの走りは、父が残したものの大きさを改めて示した。

11年連続で日本の首位種牡馬に

ディープインパクトは2012年から2022年まで、11年連続で日本のリーディングサイアーとなった。国内クラシック競走では歴代最多の24勝、欧州クラシック競走でも8勝を挙げる産駒を送り出している。

産駒の活躍は一時的な流行ではなく、長い時代そのものになった。毎年のようにクラシックの有力馬が現れ、春になると有力馬の父欄に「ディープインパクト」の名が並ぶ。それが競馬ファンにとって見慣れた風景になっていった。

  • 2012年から2022年まで11年連続リーディングサイアー
  • 日本、イギリス、フランス、アイルランドでダービー馬を輩出
  • 国内クラシック競走で歴代最多24勝
  • 欧州クラシック競走で8勝
  • コントレイルとの父子2世代無敗三冠を達成

競走馬として飛び、種牡馬としては海まで越えた。現役時代の末脚が長いとはいっても、まさか世代をまたいで伸び続けるとは、スケールが大きい。

2019年夏、突然訪れた別れ

種牡馬として頂点に立ち続けていた2019年、ディープインパクトに異変が起きた。2月中旬から首に痛みが見られ、24頭に種付けした段階で、その年の種付けを中断。治療と経過観察が続けられた。

しかし状態は改善せず、7月28日に頸部を固定する手術が行われた。手術そのものは無事に終了し、術後の経過も当初は安定していた。

ところが翌29日午前、突然立ち上がれない状態となった。懸命な治療が続けられ、30日早朝にレントゲン検査を実施したところ、頸椎の骨折が見つかった。回復の見込みが立たず、これ以上苦しませないため、安楽死の処置が取られた。

2019年7月30日午前6時40分。ディープインパクトは17年の生涯を閉じた。

あまりに突然で、あまりに早い別れだった。訃報を受けた武豊は北海道に滞在しており、帰路の飛行機を取りやめて、ディープインパクトが暮らしていた場所へ向かった。しかし最後の対面はかなわず、誰もいなくなった馬房で静かに手を合わせた。

武はディープインパクトを「ヒーローみたいな馬」と表現し、出会えたこと、ともに過ごした時間への感謝を語った。14戦すべてで手綱を取った騎手にとっても、ほかの言葉では置き換えられない特別な存在だった。

管理した池江泰郎にとっては「一生の宝物」であり、金子真人、生産や育成に携わった人々にとっても、その死は大きな悲しみとなった。競馬関係者だけでなく、多くのファンが早すぎる別れを悼んだ。

ディープインパクトが残したもの

ディープインパクトの生涯には、いくつもの顔がある。

小柄で繊細だった仔馬。走ることが好きで、放牧地の先頭へ出ようとした若馬。厩舎では素直な「お坊ちゃま」でありながら、競馬場では最後方から全馬をのみ込んだ競走馬。無敗三冠を達成した英雄。初黒星に敗れ、海外で厳しい経験をし、それでも帰国後に立ち直った挑戦者。そして、国内外へ名馬を送り出した父である。

現役時代の14戦を通じて印象に残るのは、単なる速さだけではない。皐月賞でつまずいても立て直し、菊花賞で折り合いを欠いても勝ち切り、有馬記念の敗戦後には翌年さらに強い姿を見せた。海外遠征の失意からも、ジャパンカップと最後の有馬記念で再び飛んだ。

武豊は、その走法をバネが利いた「飛ぶような」ものと表現した。全身を縮め、伸ばし、その動きを繰り返しながら加速する。後方にいたはずの小柄な馬が、直線では誰よりも大きく見えた。

そして死後も、その名は血統表から消えなかった。ジェンティルドンナ、キズナ、コントレイルをはじめとする産駒が残り、さらに次の世代へ血をつないでいる。自身が走らなくなってからも、産駒が日本や欧州の大舞台を駆け続けた。

セール会場で一頭の仔馬を見つめた金子真人は、多くの人々へ強い衝撃を与える馬になってほしいと願った。

その願いは、競走馬として実現しただけではない。

無敗三冠で競馬場を熱狂させ、敗戦によって人々の胸を締めつけ、最後の有馬記念で鮮やかに飛び、父となってからは4カ国のダービー馬を送り出した。さらに息子コントレイルが父と同じ無敗三冠を達成し、その血は世代を越えて走り続けている。

ディープインパクト。

その名は「深い印象」を意味する。だが、彼が残したものは、印象という言葉だけでは収まりきらない。競走成績、記録、歓声、悔しさ、関係者との絆、そして未来へ続く血。そのすべてを含めて、一頭の馬の生涯が日本競馬の歴史に刻まれた。

走っているというより、飛んでいるようだった馬。

その飛行は2006年の有馬記念で終わったように見えて、実は終わっていない。子どもたちへ、さらにその先の世代へ。ディープインパクトは今も、血の中でターフを駆け続けている。